院長紹介

【院長略歴】

  • 1985年 日本歯科大学 新潟歯学部 卒業
  • 1995年 今泉俊一歯科医院 開業

子供時代のこと


5歳ぐらいの時の父との写真
2人で写っている数少ない1枚

父が新聞社に勤めていたため、引越しが多く小学校に入るまでに2回の引越し、そしてその後3つの小学校に行きました。
はじめの小学校には入学式から4日間だけ通いました。

その小学校で覚えていることは、教室の机が2人一緒の木製でふたが上に開くものだった、ということだけです。

2つ目の学校には5年生の冬までいました。今までで一番遊んだ時期だと思います。


犬?ではなく、熊と一緒に。
なんと、子熊を飼っている
お店で。

外で遊ぶことや、スポーツが大好きで得意だったため、学校から帰ってくると勉強もそこそこに、学校の校庭や近くのお寺に皆で集まり、ソフトボールやサッカー、かくれんぼ、ザリガニつり、自転車で遠くの川まで遠征しサワガニを取りに行ったり、冬の休日はスキーと・・・・まさにアウトドアの生活を楽しむ毎日でした。

しかし一人っ子なのでうちに帰ると、ゲームをする相手もなく、本を読むことが楽しみでした。

父親は、新聞社に勤めており、自宅が支社、支局となっていました。
一般の会社であれば事務所に一日いるのでしょうが、新聞記者ということで、あちこちの取材やスポンサーを回ったりと忙しくしていたようです。
今と違って、日曜日も決まった休日というわけではなく、旅行や外出の予定をしていても突然中止になったり、旅行中も事件が起こると、父親だけが戻ることもありました。

大変そうでしたが、なんといってもかっこよく見えた父親の仕事に憧れ、カメラマンのロバート・キャパやジャーナリストのアーニーパイルの本を何度も読み、「世界を駆け巡るジャーナリストになる」といった夢を持っていました。

それと同時に、祖父と2人の叔父が歯科医師であったので、歯科医師の仕事も身近なものでした。
祖父にはかわいがってもらい、遊びに行くと診療室でいろいろ触らせてくれたり、おこずかいをもらったりと、祖父の医院に行くのは楽しみでした。

しかし、今から40年くらい前の歯科医院はとんでもなく忙しいところでした。
今でも覚えていますが、1階の待合室に入れない患者さんが、2階の診療室に入るまで何時間も階段に立ったまま待っているのです。

祖父の部屋は3階だったので、そこにたどり着くまでは患者さんをかきわけながら行かねばならず、大変でした。
もっとも、階段で待っていた患者さんのほうがよっぽど迷惑だったと思いますが。

中学、高校生のころ


高校生のときに、山形県の
山寺に家族旅行に
行ったときの写真。

中学2年の冬に、また転校です。地元の高校に入ることを考えていた私は、急に転校になり、違う高校を受験することになりあせりました。

今までのつけが回ってきたということでした。3年間の勉強を1年でやらなければなりません。このとき判ったのは、「勉強はすればするほどわからないことが出てくるものなのだ」ということです。

勉強をしていないときは、わからないことさえ判らなかったのです。やればやるほどわからないことが出てきて、どうなるのだろうと、暗い気持ちになったこともありました。これは大学で試験勉強をしていたときに、再度思い知らされました。

なんとか希望の高校に入ることができると以前に祖父に言われた言葉が、現実味を帯びてきました。


高校生のときに自宅で
母親と一緒に撮った写真。

子供のころ待合室や、階段で待っている患者さんをみて、あまりに気の毒なので「待っている患者さんはどうにかならないの?」と聞いたとき、「今は患者さんが多く、歯医者が少ないのでどうしようもないんだよ。お前も一緒にやろう」といわれた事を思い出したのです。

父の仕事への憧れからの、「世界をかけめぐるジャーナリスト」という夢も捨てがたいものでした。しかし実際、目の前で患者さんを治し直接患者さんからお礼を言われたり、楽しそうに患者さんと話をしている姿を見ると、これもまたすばらしい仕事に思えてきました。

また、子供のころから本を読むことが好きだったために、文学部に入りその方面の勉強をしたいとも思い、進路に迷っていました。

そんなある日、父のいとこで中学のとき英語を教えていただいていた先生が遊びに来たとき、何気なく進路に迷っている話をしたところ、こんなことを言ったのです。

「俊ちゃん、何でも良いけど俺が思うには、50歳、60歳になったとき、自分がだれかの役に立っていると思える仕事をしていないと、むなしくなると思うよ」

これを聞いた夜、一晩中ずっとその言葉を考え続けました。

高校時代はボート部(漕艇部)に入り、毎週末は山の上のダムまで自転車でボートを漕ぎに行っていました。

高校生はナックルフォアといって、4人の漕ぎ手とコックスという舵取りが一人の5人編成で1000メートルを漕ぎきります。あのころのタイムは4分ちょっとだったと思います。

あまりメジャーなスポーツではなく、やったことがある人も少ないと思いますが、レースのときの最後の300メートルは、まさに最後の力を振り絞ってという感じです。

このときのつらさは、大学時代の試験勉強に打ち勝つパワーになってくれました。

そして、恩師の先生の言葉に考えさせられ、いろいろ悩んだ末、ついに歯学部へ進学しました。

大学時代のこと


入学式の時の写真

歯学部は6年間ですが、2年生の後期から専門が始まり、歯科専門学校とも言いたくなるようなハードな生活が始まりました。

1,2年生のころは、人並みに授業をさぼったり、ウェイターや家庭教師のアルバイトをしていましたが、3年生になると一切そんなことは不可能になりました。

ちなみに、3年生から6年で卒業するまでの4年間で授業を休んだのは、風疹にかかって休んだ3日間だけです。しかしこれはうちの大学では別に珍しいことではなく、4年間全く休まなかった同級生も大勢います、というよりほとんどは一日も休んでいないと思います。
これは、真面目だとか、勉強熱心だとかという問題ではなく、休むことができないのです。
もっとも、留年してもいいなら別ですが。

ちょうど仲のいい友人3人で同時に風疹になってしまい、授業を休む羽目になったわれわれは、担当の教授に「風疹になったために授業を休みます」と言いに行ったのですが、そのときの教授の言葉は今も覚えています。

「休むことは結構です。風疹で休もうが、旅行で休もうが休むことには変わりありません。病気で休むからなにか特別だと思うのは、大きな間違いです。」

確かにわれわれは、風疹なので授業を休んでも、単にサボった人とは違った扱いをして欲しいと思っていたのでしょう。そんな甘えをきっぱり断ち切ってくれた旗手教授には今も感謝しています。


大学の時に愛犬アルとの1枚。

大学は海のすぐ近くだったので、休日や昼休みには海を見ながらお弁当を食べたりしていました。冬の天気は少しつらいものがありましたが、それでも環境にはとても恵まれていました。.

勤務医時代

そんなこんなで、何とか6年で卒業、国家試験合格となり、春から東京で新米歯科医の生活が始まりました。

勤めたのは、都内の新人教育がかなり厳しいという評判の歯科医院でした。クラブの先輩が以前から代々お世話になっていたこともあり、また顧問の教授も若いころ勤めていたこともあるところでした。

はじめは、大学の実習の続きのように模型を使った練習と、先輩の先生の診療の補助、見学です。

歯科医のライセンスを取ったとはいえ全くの新米、学生時代より早く勤務先に行き、診療が始まるまで先輩による講義や実習をして、診療後はまた実習という具合でした。

毎日毎日、近所の定食屋で夜遅く夕飯を食べる日々でした。
しかし今考えると給料をいただきながらあんなに勉強させてくれた環境は、本当にありがたいと思います。
休日も、毎月一回は外部から、いろいろな大学の先生や、有名な開業医の先生をお招きして勉強会を開いてくれていました。
また、外科手術もわれわれが勉強できるようにと医院にそれにふさわしい設備を施し、大学病院の教授や助教授を招いて、できるだけ医院の中でやっていました。


太田綜合病院 小磯診療所で
看護婦さんと一緒に。

その後、郡山の綜合病院に勤務し(約5年)歯科・口腔外科を専門になさっている先生方のもとで経験をつむことができました。

毎週1〜2回は歯科・口腔外科のオペ日となっており、全身麻酔での手術に入りました。

そして、歯科・口腔外科の入院患者さんの毎日の回診をします。

その際看護士さんや栄養士さんとの話し合い、また食事や薬の指示など全身管理についても多くを学ぶことが出来ました。

さらに大きな宝は、他科の先生との交流です。

内科、外科、小児科、皮膚科・・・仕事やプライベートで多くの時間を一緒に過ごし、歯科だけでは知ることのできない、さまざまな経験や知識を得ることが出来ました

病院をやめて15年くらいたちますが、今でもお付き合いをしていろいろ教えていただくこと多く、大切な私の財産です。

今泉俊一歯科医院を開業して

綜合病院の勤務もやりがいがあり楽しいものでしたが、徐々に自分の考えたような医院のシステムや治療方針でやってみたいという気持ちが強くなり、自分の医院を開業することにしました。

平成7年4月5日郡山市安積町に、今泉俊一歯科医院を開業しました。
開業のときに考えた医院の方針は

  1. 1.患者さんの健康を守るための歯科医院でありたい。
  2. 2.患者さんが怖がらずにいらっしゃれるような医院にしたい。
  3. 3.できるだけ痛くない治療を、していきたい。
  4. 4.常にきれいで清潔な医院でありたい。

最近ではこれに加えて、

  • 「医院にこられる方が、健康で笑顔あふれる生活ができるお手伝いをする」
  • 「痛いときにくるところではなく、痛くならないように来て頂ける所になる」
  • 「病気のある方だけでなく、健康で歯の痛みのない方にも、健康と笑顔あふれる生活のために役立つ医院になる」

等を考えて、地域の皆様の健康を口の中からサポートできるよう、スタッフと取り組んでいます。

これから、私たちは今までよりいっそう勉強し、いい器材を導入し、皆様の健康と笑顔のために努力、研鑽に励んで行きます。


日本姿勢咬合医協会の
川邉先生と。

私たちは、それを望む健康や美に対し意識の高い方々の期待を裏切らぬよう、共に歩んでいきたいと思っています。

長い文章を読んでいただいてありがとうございました。.

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